タロットは友達

Wish to stand by the fragile, at all times.

広げすぎたもの

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最近ふと気付いた。

気づくのが遅すぎたのかもしれないけど…


去年から今年最近にかけて、ほんとにいろんなことをやってきたな。と。

私の中でその全てのスタートがタロットとの出会いだったな、と思うんだけれど。


二足のわらじならぬ、三足?くらいにしたい気持ちだけはどんどん広がって、何とか並行して、気持ちだけで進んできたけど、やっぱり現状の生活で出来る範囲でというのはある程度限られていて。


そこに来て、新たに自分のプライベートに大切な要素ができた。

とても嬉しいことだけど、トータルして、現実的にもう私のキャパは超えた…

ここに来てさすがに気付いた…

しっかり本当にやりたいことを整理して、そしてそれをきちんと継続してみよう。


焦らずに落ち着いて、まずゆっくり整理してみよう。そして大切なもののために生きる準備をしよう。


射手座の木星山羊座に移る気配をもう感じているのかな…


ところでタロットは、もはやわらじではなく、私の体の一部みたいに自然な存在になっていた。気づけば。

期待と違う結果を伝えるとき

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先日、何度か占わせて頂いたことがある方からの依頼で、タロットカードを切りました。


恋愛関係のご相談。その方の恋愛関係を占ったのは初めてでした。

結果として、その方の想い、期待と違う結果になってしまい、でもそれはそれとしてきちんと、お伝えしました。


今まで、ご家族内のことで何度か占わせて頂いたときには、その後の話なども合わせて良い方向に行ったとフィードバック頂けて、こちらも安心していたのですが。

でも、今回はやはり結果を聞いた残念さというものが勝って、がっかりされた雰囲気が直に伝わってきました。


自分の身になってみると、やはり占いをしてもらう時というのは、

①自分が本当に迷っていること

②結果どちらに転んでもどうにか対処できる自分であると思える内容

③そして、知らないよりは知る方が確実に楽になること。

この3つくらいをクリアしたときのほうがいい気がします。


なんて自分勝手、と思うのですが、私はやはり自分の進みたい道がはっきりしているとき、そうなりたいと信じることが自分の中で揺るがないときは、占いはしません。


占いの使い方は自由です。


ただタロットはいつもその時の本当を伝えてくれる。それだけは確か。

だからこそ、自分で決めたいとき、信じたいときはひとりで決めればいい。

でも時にどうしたらいいか分からなくて誰かに聞いてみたくなる時、その時はいつでも聞いたらいい。

タロットという本当に信頼できる友達に。


送信側?受信側?

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先日、とても不思議な体験をしました。


私はその方と会う予定の前日、明日聞いてみよう、と心に決めていたことがあったのです。

それは今まで、いつ聞いても良かったようなことでもあるし、これから別にいつ聞いてもいいようなことでもあったのですが。

なぜか、明日にしよう。と。


そして会った当日、何気なく入ったカフェでその方は私のしようとしていた質問に、求めていた以上の詳しい答えを自分から話し出してくれたのです。

私はまだ質問もしていなかったというのに。


その時間はとても不思議で。

その空間も時間も私たちも、何かがひとつになって生まれた瞬間なんだと感じました。


後々その話を相手の方にしたら、それは自分が私の質問を無意識に受け取っていたのかもしれないし、逆に私が無意識に伝えていたのかもしれないという話になり。


送信側なのか受信側なのか、どちらかは分からないけど、人は結構どこか深いところでやり取りをしているのかもしれないですね。

意志や思想で変えられるもの

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本当の占い師さんは、やはりクライアントがどうしたら本当に良くなれるか、幸せになれるかを探すことを一生懸命されている。


私は占いに触れてまだ少ししか経っていないけど。

最初は占いのパワー(本当にタロットカードが今を表現してしまうことや、ホロスコープが本当にその人の人となりを表していることなど)に圧倒されていた。

それを実感するにつれ、自分のことを占うことにも怖れが出たりして。良い方へ向かって欲しいことなんかはだから敢えて占わないとか(笑)


でも、最近、とある占い師の方が、相性的に最も良くないという組み合わせで結婚してもずっと続く人たちもいるという話をされていた。そのご夫婦の片方はクリスチャンで、その思想をもっていたからこそ続いたという話。


占いで表現される関係性はつまり絶対的ではないということ。


先日、私自身が、相性を占って頂いたとき、最初先生は私の問いかけに対して、ホロスコープとタロットで出た結果をかなり客観的に伝えてくださって。

その結果としては、私の弱い星に相手の方の強い星々が影響を与える、じゃんけんでいったら相手の一人勝ちのような感じ。ということだった。

たぶん私の聞き方から、私がただ迷っていて客観的結果を求めていると思ったからこその答えで。

でもそのうちに先生に「その人のことが好きなの?」と聞かれ、そうだと答えたら、「それなら頑張っちゃいますか。」って。

「ハートチャクラ開いちゃうみたいな感じで。」


あくまで客観的な相性は理解できたけど、もしそのまま終わってしまったら、この先その方とやっていくことにポジティブになり切れたかどうか…

でも、最終的に言ってもらった先生の一言で俄然頑張ればどうにかなる!という気持ちが生まれた。

そして、今、前向きに進んで良かったと思える自分がいる。先生ありがとう。


占い師の一言は、クライアントに強く響くだけに、自分も大切に言葉を発して行きたい、と思うのだった。


区別したり差別したり

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宗教で占いは禁止されていることがあります。

世界で最もメジャーな宗教ともいえる宗教に関係してはいる私ですが、このことを知った時は少し動揺しました。


そしていろいろ考えていくうちに、そもそも宗教の教え、考え方は果たして万能なのだろうか、と疑問に行きつきました。


例えばある宗教では、その宗教における神様や教祖を信じれば、死後に生まれ変わって天国で暮らせる、とか。

じゃあ他の宗教を信じていた人はそこでは救われないのか?例えどんなに人のために生きた人でも、人のために死んだ人でも?

宗教という括りで区別すること、それ自体にはずっと違和感を感じてきたわけですが、こと信じれば救われる的な教義に関してとても疑問に思うことがあります。


大学生の頃、河合隼雄先生の講義の中で宗教の話になり、どの宗教も山を登っていけば、同じ山頂に辿り着く、みたいなものなんじゃないだろうか、というようなことをちらっとお話しされていたのをよーく覚えてます。

それだ、と思ったのです。


占いはどちらかというと、宗教みたいに人が作ったものではなく、宇宙、生命体、とにかく全体、みたいなものを表すというのが1番の目的であると思います。

星も、カードも、事象を表現してくれる、確かなツールなのです。

そこには、評価というものは存在せず、解釈と伝達があるのみなのではないでしょうか?

それを伝えるのが占い師、あとは受け取った人が自分で評価、利用していくのです。

科学、と並列のようなもの、と私は思います。


こんな風に区別、差別を嫌い、融合、和合を目指してしまうのは、魚座木星のせいなのでしょうか。


占いとの付き合い方

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最近私の中の何かが大きく変わった。

いや、何か別の世界に来た、という方が的を射ているのかも。


ここに来るまでに、私は確かにもがき続けたんだと思う。とにかく今をどうにかしなきゃ、何か動いて変えて行かなきゃ。と。

だからひたすら動いた。立ち止まることなく次から次へと。

その最中に私を大いに助けてくれたのが、タロットや、占星術

自分を知り、他人を知り、知ってから考えることで今までには到達出来なかった考え方に辿り着き。


そして、最後は、外から突然の出会いがもたらされた。

これは偶然ではなく、たぶん今までの流れの延長上にある、必然的な出来事だったのだと思う。


苦しみの中で出会った占いの世界を、これからは楽しくワクワクする純粋な気持ちで渡り歩いて行きたいという気持ち。

これからもっとしっかりと、いろんなことを学んで行きたいと改めて感じる魚座の月の夜。

令和≒水が溢れる?

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来週予定されていた即位の礼の日のパレードが延期されるというニュースを見ていて思い出したことがある。


今年、平成から令和に変わる直前あたり、タロットの練習会に参加した時のこと。このタイミングなので、令和っていうのがどんな時代になるか占ってみることになり…


その場に4人参加していたのですが、そのうち3人が水(カップ)に絡むカードを出しました。

私はカップの5、確か正位置だった。

何か今までの時代に培われてきた要素とか、人同士をつなぐ情みたいなものがこぼれて行きがちな時代かな?でも確かにまだそういうものはちゃんと残っているはずだからそれを忘れないでいたい時代、というようなリーディングをしたと思います。

それからよく覚えているのはもう1人の方がカップのエースの逆を出したこと。


それから帰り道に、「令和」の文字を頭で描いていて、そういえば、"令"の字ってなんかカップの逆みたいだなぁ、雨が滴って落ちたりみずがこぼれそうな形だなぁ、とかふわっと思ったのでした。


今、この水害を思うとき、その"水"は人間の内的世界の話だけではなかったのかも、と感じられて。


こぼれ行くものが多い時代かもしれない、でもだからこそ、まだたくさん残っている大切なものを忘れないようにこの時代が進んだらいい、と思いました。