肉体的ハンデ、精神的ハンデ
今日ふと考えたこと。
体と同じように心にもハンディキャップというものがあるのではないだろうか。
人間は、これから生きていくことが他の人たちよりずっと難しいものを体に持って生まれてくることがある。
それと同じように、生きていくのが難しい心を持った人もいるんだと思う。
心理占星術を学ぶ中で、困難なアスペクトを成長に必要なものと捉える考え方を知った。
体も心も、生まれてきたとき、全ては優劣も善悪も超越した個々のものであり、そこに評価は存在しないと思う。
けれども、その体や心は、そこから人間社会という枠組みの中で生きて行かなくてはならない。
そうなると、その作られた枠組みに適応しやすい体、心、と、適応しづらい体、心、というものが出てくる。
身体的なハンディキャップは外から見えることが多く、他人にも感知される。
それに対して、心、精神のハンディキャップというものは、なかなか理解されずに個人の中で孤独に抱え込まれていく。
例えば誰かは、本当の孤独に苛まれ、それに耐えられなくなることがある。
けれどそのような孤独というものを知らずに生きる人もたくさんいる。
本当の孤独とは、近くに誰かがいても、いなくても、関係なくあるもの。
それは体験しなければ理解できない種類の痛み、辛さ。
それを持つ人と持たない人が同じルールで動くことを求められ、ハンデ無しで戦うことを要求され、一つの法律で裁かれる。
時に世間は心の弱い者の、その弱さをすら裁くのだ。弱いお前が悪いのだと。
私は公平でありたい。
心のハンデはちゃんと考慮したい。
誰も自分で選んでその心を、その体を持って生まれたのではない。
与えられたものだから。
与えられたものがそれぞれ違うならば、それぞれの生きやすさも違う。
誰かにとっては簡単なことが、ある人にとっては恐ろしく困難だ。
それなのに同じようにできないお前はダメだと裁く世の中は、全く公平さを失っている。
世間全般というものがそういうものならば、私はそこに属さずに生きたいと思う。